校長 式辞
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音第20章19~23)
雪の重みにうちしおれていた正門近くの小さな花々が、その翌朝、太陽の光を浴び、以前よりいっそうその色を濃くし、凛と咲誇る姿にいのちの躍動と喜びを感じます。本日、恵みの雨の中、聖ドミニコ学院を巣立っていかれる45名の皆さま、そして保護者の皆さまご卒業おめでとうございます。
皆様は、新型コロナウィルス感染症により、行動も会話も制限される高校生活を過ごすことを余儀なくされました。そして、制限が緩和された本年度、初めて体験した学校行事が多くありました。事前の情報もない中で、試行錯誤を繰り返してさまざまな行事を最高学年として果たされました。この経験は「先が見通せない時代」と言われる昨今、皆様のこれからの道を切り拓いていく力となることと思います。
さて、先ほど朗読された福音は、死という最強の殻を破り、裏切ってイエスを捨てた弟子たちを、イエスとの出会いに導き、新たないのちへと誘ってくださった、春の訪れにふさわしい行です。
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸を閉ざして鍵をかけていたとあります。この戸は複数形です。家の戸であると同時に、彼らの心の「戸」でもあります。恐れが、彼らの心を閉ざしていたのです。
恐れは人を縛り、麻痺させ、孤立させます。自分と異なる者、自分と考えが違う者を怖いと感じさせます。もしかすると、ちょっとした失敗から、神に対しても自分のことを怒っているのではないか、自分を罰するのではないかと恐れを持つかもしれません。こうした偽りの恐れを放置すると、心や社会の扉は閉じてしまいます。恐れのある所に閉鎖があります。
弟子たちは、救い主と信じたイエスが捕らえられ、鞭打たれ、十字架刑で無残になくなってしまった失望と、自分たちが、その師を裏切り逃亡してしまった後悔にさいなまれています。
ところが、十字架上で息を引き取り、墓に葬られたイエスは、予告されたとおりに復活して、ご自分を見捨てて身を隠していた弟子たちのもとに来てくださったのです。そして、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と言って、その手足に残る傷あとをお示しになったのです。弟子たちは主を見て喜んだと記されています。弟子たちの裏切りをものともしない、イエスの愛とゆるしの大きさは圧倒的です。
今、世界は和解とゆるしを必要としています。ロシアのウクライナ侵攻から2年、今度はパレスティナとイスラエルの間で戦火が上がり、パレスティナ自治区ガザの住民の4分の1、58万もの人が飢餓寸前であることが報道されています。報道されない悲惨な状況が世界中にあります。私たちと世界のために、私たちを覆う恐れを振り払い、浄めてくださる愛の霊を願いましょう。
「聖霊を受けなさい」(20:22)。そう言って、イエスは弟子たちに息を吹きかけられます。イエスが吹きかけられた息は弟子たちを新しく創造する「命の息」(創2:7)です。そして、すべての人をその汚れから清める霊の息吹なのです(エゼ36:25~27)。
イエスの復活のいのちの息吹が弟子たちの中に新たないのちを吹き込みます。聖霊は神の寄り添いを感じさせ、その愛によって恐れを追い出し、歩みを照らし、慰め、逆境の中で支えます。
イエスとの交わりは、イエスの死によって絶たれることなく、復活によってさらに深められ高められるのです。イエスの平和は弟子たちに約束していた平和で、イエスが与えるこの平和の中で、弟子たちはイエスと共に生き、この平和に招き込まれた者は復活のいのちに生き始めるのです。
最後にヨハネ23世教皇の『地上の平和』より引用いたします。
「真理とはお互いに誠実で実直であること。
正義、それは他人の権利を尊重し、侵さないこと。
愛は、お互いの幸せを望み、自分の幸せを惜しみなく他者に分け与えること。
そして、自由とは誰も他人を抑圧してはならないこと。そして、誰も抑圧から身を守るために暴力を用いてはならないこと。」
はじめから聖霊に満たされた方、聖母マリアが皆様お一人お一人の行く手をいつくしみ深くお守りくださいますように。心から祈りながら、わたくしの式辞といたします。